僕のいる小径が見た月は
2008年12月28日 その他創作久しぶりに短編。
全斜体字とかは見づらいのでヤメにしました。
草原を吹き抜ける一迅の風。
ザァァ…という緑のざわめき以外に立つ音も無く、僕は今日もここに居る。
広がる大地の心を抜けていくような清廉さとは裏腹に、空はどこまでも雲が覆い尽くしていた。
灰色の空は、しかしまだ明るい。寄る辺無き身を冷たく濡らす忌々しき「天の恵み」の気配は感じられなかった。
――――もっとも。
此処に於いて、それは恵みなどで有りはしないのだが。
…また、誰かが歩いてる。
この丘に座って、ただ一人留まっている変わり者は僕ぐらいだろう。
地平線まで埋める草原も、歩いて行けばいずれは尽きる。否、“カタチを変えて、その人の前に現れる”。
だから、どこへ行こうと多少の差は有れど、心が視出すものは大して変わりはしない。
…あの歩いている彼だか彼女だかは、何を求め彷徨っているのか。
……そんなことは僕には知りようもないし、興味も無い。
……どうせ、お互いに姿も見えないのだから。
時間とともに、曇天もまた暮れてゆく。
本当に短い昼など問題にならない。赤く雲が焼けていく夕方こそが、ここの真の時間。
そして短い夜が明け、また短い昼が過ぎて、再び長い夕方に戻っていくのだ。
その夜の間に。
いつものような誰かとは違う、圧倒的な存在感を湛えた何かが僕の感覚を強烈に刺激した。
振り向かずにはいられなかった視線。
その先には、今まさにあることを認識した――――確かに先刻までは無かった、だが此処では知覚している風景が突如変わる事など特段珍しいことでもないが――――風を受けながらもさざ波一つ立てずに曇り空を正確に映し出す湖面、そのほとりに佇む小さな、しかし視える本質はあまりにも巨(おお)きく、あまりにも猛々しい……年端もいかない少女。
久しく覚えた感情が一つ、だが自分でも驚くほどに意義を持たざるその“恐怖”には、僕を動かす力などありはしなかった。
それでもその感情を読まぬ湖、つまり、そこは僕を拒絶した、本来のこの“場”とは異なる…恐らくは少女が半ば無理矢理にねじ込んだ“場”なのだ。
突如自身の“場”を侵された僕がそれでも微動だにしなかったのは、…やはり、ひどく錆び付いてしまったからだろう、或いは、もう、此処に於いてすら、どうでも良かったからかも知れない。
僕を裏切り続ける湖は、更にその姿を変える。水面に一点、輝きが零れ落ちた。
埋め尽くしていた雲が綻び出し、そこから真円を描く月が顔を覗かせ、やがて全てを曝け出した。…………空は、未だ曇ったままなのに。
湖面は最早天を映し出してはいなかった。そこは、もう、違う、“なにか”、なのだ。
気が付くと、少女はもう顔が判別できるところまで近づいて来ていた。
先程感じた攻撃性は微塵も見られないあどけない愛らしい顔、背も僕より随分低く、見た目の年は十歳少々と言ったところか。頭から伸びる大きなリボン、そのせいで伸びる彼女の影法師はまるで兎のように見えた。
――――果たして、確たる記憶が僕にはあった。
いつだったろう、どこだったろう。
時も場所も、整合する事は出てこない。それでも、彼女を僕は、憶えていた。
「まだ、ここにいるの?」
初めて言葉がその口から紡がれた。
年相応の声色、ただ何気なく聞いたような裏を感じさせない言葉。
その無邪気に、僕はもういつからか開いてないこの口を、懸命に動かした。
「…うん」
たった一言。
ただひたすらにぼんやりとした、返事とも怪しい漏れ声に少女は続ける。
「あるかないの? ほかのみんなみたいに」
「…うん。歩かない」
さっきのに加えてやっと出たのは、鸚鵡返し。
この口を閉ざし、開くための相手もいなくなった頃から、そう、僕は確か、会話を億劫に感じていた。
僕のつまらない反応に、少女は僅かずつ歩を進める。
…そうだ、彼女は何故僕の前に?
この空間に来た者は一律に、案内人とも言える存在がいるはず。
共だってゆくことで、その人もそれぞれが歩いていく先へ行ける。
いずれ、案内人が必要でなくなったときこそ…
だが。
僕にはそんなものは居なかった。
居なかったからこそ僕はこうして、一つどころに留まり続けている。
じゃあ、彼女は。
そんな僕のための…案内人…?
少女はさらに僕に近づく。思慮に耽る僕は動かない。
ひたすらに無防備な僕の顔を、幼い表情が覘き込む様に屈み込んだ。
…瞬間、たちまち総毛立つ感覚が、込み上げる冷や汗が、動くことも稀だった僕を激しく飛び退かせた。
目の前のものに、僕に対する明確なプレッシャーを放たれていては、鈍感な僕でも逃げざるを得ない。
地に手をついて飛びすさる直前、小さな微笑を湛えていた少女の唇の端はまるで獲物でも捕らえたかのように、ニイッ…と歪んでいた。
「…愚物が。何一つ成し遂げず、唯此処に止まって諦観…
悟ったつもりでもいるのか?」
放たれた言葉もまた先程の少女のものとは異質、最初に起きた気配と同等の。
凄まじい緊張感。一瞬たりとも気を抜けばその刹那に、そう、僕は…されてしまいそうな。
… … ?
とにかくさっきの思索など酷い思い違い、案内人などとんでもない。
…大体最初から、何故か一人で此処に来てしまった僕なんかにはそもそも有り得ない事だろう。
僕は彼女に何か言い返そうとして口を開いた。
だが、出て来たのはただ怯えに染まった、震えて歯がカチカチと立てる情けない音だけだった。
少女の影法師が――――光源など、湖の中の満月しか無いと言うのに、確かに伸びていたそれが――――不自然に形を変えてゆく。
全てに逆らうように。その先は、湖へ向かって。
湖面の月に届こうかという直前にそれは止まり、
――――肥大化した片一方のリボンの影が、まるで巨人の腕のように伸び上がり、地から起き上がり。
――――ただ映していたハズの満月を。
“湖底から持ち上げた”。
「よりにもよって、こんな処でまで無害ぶる所存か。
此処でなら、この位やってみせろ」
冗談じゃない。
僕はどこにおいても、秩序は保たれるべきだと思う。だからこそこの空間に居た。
それが、それのまま、許される処と信じて。
…否。
本当ならば、そう。
突然に風景を変えてしまうような、こんな……場所で。
例えばそう、周りの草原を、一瞬で森にすることも、荒野にすることも。
僕自身がやろうと思えば、出来る程度でなくてはいけない……
此処は。
“そんな場所”、なのだ。
いつしか少女の姿は消え失せていた。同時にあの湖も。
曇り空には明るみが射し、短い夜の終わりを告げていた。
…果たして、僕に何が出来るのか。
自分は何も出来ない、ただ見守るぐらいしか、出来ることがないと思っていた。
そうだ。
何でもいい。例えこの草原から、この雲の下から出ることは適わなくてもいい。
歩こう。僕も。
…オレも。
それが、自分が自分として、いずれは、本来此処に来るべき人が、案内人を不要とするようになる時まで――――。
全斜体字とかは見づらいのでヤメにしました。
草原を吹き抜ける一迅の風。
ザァァ…という緑のざわめき以外に立つ音も無く、僕は今日もここに居る。
広がる大地の心を抜けていくような清廉さとは裏腹に、空はどこまでも雲が覆い尽くしていた。
灰色の空は、しかしまだ明るい。寄る辺無き身を冷たく濡らす忌々しき「天の恵み」の気配は感じられなかった。
――――もっとも。
此処に於いて、それは恵みなどで有りはしないのだが。
…また、誰かが歩いてる。
この丘に座って、ただ一人留まっている変わり者は僕ぐらいだろう。
地平線まで埋める草原も、歩いて行けばいずれは尽きる。否、“カタチを変えて、その人の前に現れる”。
だから、どこへ行こうと多少の差は有れど、心が視出すものは大して変わりはしない。
…あの歩いている彼だか彼女だかは、何を求め彷徨っているのか。
……そんなことは僕には知りようもないし、興味も無い。
……どうせ、お互いに姿も見えないのだから。
時間とともに、曇天もまた暮れてゆく。
本当に短い昼など問題にならない。赤く雲が焼けていく夕方こそが、ここの真の時間。
そして短い夜が明け、また短い昼が過ぎて、再び長い夕方に戻っていくのだ。
その夜の間に。
いつものような誰かとは違う、圧倒的な存在感を湛えた何かが僕の感覚を強烈に刺激した。
振り向かずにはいられなかった視線。
その先には、今まさにあることを認識した――――確かに先刻までは無かった、だが此処では知覚している風景が突如変わる事など特段珍しいことでもないが――――風を受けながらもさざ波一つ立てずに曇り空を正確に映し出す湖面、そのほとりに佇む小さな、しかし視える本質はあまりにも巨(おお)きく、あまりにも猛々しい……年端もいかない少女。
久しく覚えた感情が一つ、だが自分でも驚くほどに意義を持たざるその“恐怖”には、僕を動かす力などありはしなかった。
それでもその感情を読まぬ湖、つまり、そこは僕を拒絶した、本来のこの“場”とは異なる…恐らくは少女が半ば無理矢理にねじ込んだ“場”なのだ。
突如自身の“場”を侵された僕がそれでも微動だにしなかったのは、…やはり、ひどく錆び付いてしまったからだろう、或いは、もう、此処に於いてすら、どうでも良かったからかも知れない。
僕を裏切り続ける湖は、更にその姿を変える。水面に一点、輝きが零れ落ちた。
埋め尽くしていた雲が綻び出し、そこから真円を描く月が顔を覗かせ、やがて全てを曝け出した。…………空は、未だ曇ったままなのに。
湖面は最早天を映し出してはいなかった。そこは、もう、違う、“なにか”、なのだ。
気が付くと、少女はもう顔が判別できるところまで近づいて来ていた。
先程感じた攻撃性は微塵も見られないあどけない愛らしい顔、背も僕より随分低く、見た目の年は十歳少々と言ったところか。頭から伸びる大きなリボン、そのせいで伸びる彼女の影法師はまるで兎のように見えた。
――――果たして、確たる記憶が僕にはあった。
いつだったろう、どこだったろう。
時も場所も、整合する事は出てこない。それでも、彼女を僕は、憶えていた。
「まだ、ここにいるの?」
初めて言葉がその口から紡がれた。
年相応の声色、ただ何気なく聞いたような裏を感じさせない言葉。
その無邪気に、僕はもういつからか開いてないこの口を、懸命に動かした。
「…うん」
たった一言。
ただひたすらにぼんやりとした、返事とも怪しい漏れ声に少女は続ける。
「あるかないの? ほかのみんなみたいに」
「…うん。歩かない」
さっきのに加えてやっと出たのは、鸚鵡返し。
この口を閉ざし、開くための相手もいなくなった頃から、そう、僕は確か、会話を億劫に感じていた。
僕のつまらない反応に、少女は僅かずつ歩を進める。
…そうだ、彼女は何故僕の前に?
この空間に来た者は一律に、案内人とも言える存在がいるはず。
共だってゆくことで、その人もそれぞれが歩いていく先へ行ける。
いずれ、案内人が必要でなくなったときこそ…
だが。
僕にはそんなものは居なかった。
居なかったからこそ僕はこうして、一つどころに留まり続けている。
じゃあ、彼女は。
そんな僕のための…案内人…?
少女はさらに僕に近づく。思慮に耽る僕は動かない。
ひたすらに無防備な僕の顔を、幼い表情が覘き込む様に屈み込んだ。
…瞬間、たちまち総毛立つ感覚が、込み上げる冷や汗が、動くことも稀だった僕を激しく飛び退かせた。
目の前のものに、僕に対する明確なプレッシャーを放たれていては、鈍感な僕でも逃げざるを得ない。
地に手をついて飛びすさる直前、小さな微笑を湛えていた少女の唇の端はまるで獲物でも捕らえたかのように、ニイッ…と歪んでいた。
「…愚物が。何一つ成し遂げず、唯此処に止まって諦観…
悟ったつもりでもいるのか?」
放たれた言葉もまた先程の少女のものとは異質、最初に起きた気配と同等の。
凄まじい緊張感。一瞬たりとも気を抜けばその刹那に、そう、僕は…されてしまいそうな。
… … ?
とにかくさっきの思索など酷い思い違い、案内人などとんでもない。
…大体最初から、何故か一人で此処に来てしまった僕なんかにはそもそも有り得ない事だろう。
僕は彼女に何か言い返そうとして口を開いた。
だが、出て来たのはただ怯えに染まった、震えて歯がカチカチと立てる情けない音だけだった。
少女の影法師が――――光源など、湖の中の満月しか無いと言うのに、確かに伸びていたそれが――――不自然に形を変えてゆく。
全てに逆らうように。その先は、湖へ向かって。
湖面の月に届こうかという直前にそれは止まり、
――――肥大化した片一方のリボンの影が、まるで巨人の腕のように伸び上がり、地から起き上がり。
――――ただ映していたハズの満月を。
“湖底から持ち上げた”。
「よりにもよって、こんな処でまで無害ぶる所存か。
此処でなら、この位やってみせろ」
冗談じゃない。
僕はどこにおいても、秩序は保たれるべきだと思う。だからこそこの空間に居た。
それが、それのまま、許される処と信じて。
…否。
本当ならば、そう。
突然に風景を変えてしまうような、こんな……場所で。
例えばそう、周りの草原を、一瞬で森にすることも、荒野にすることも。
僕自身がやろうと思えば、出来る程度でなくてはいけない……
此処は。
“そんな場所”、なのだ。
いつしか少女の姿は消え失せていた。同時にあの湖も。
曇り空には明るみが射し、短い夜の終わりを告げていた。
…果たして、僕に何が出来るのか。
自分は何も出来ない、ただ見守るぐらいしか、出来ることがないと思っていた。
そうだ。
何でもいい。例えこの草原から、この雲の下から出ることは適わなくてもいい。
歩こう。僕も。
…オレも。
それが、自分が自分として、いずれは、本来此処に来るべき人が、案内人を不要とするようになる時まで――――。
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