聞け、既存システムに入れない子供たちの声
2007年12月31日 読書
暮れも迫った北国のアパートの一室、雪に閉ざされつつある外をよそに一人他の事に充てたかった時間を潰しつつ買いっぱなしだったこの本を読んでいる俺でした。
さて、この本はメカビのスーパーバイザーとしてお馴染みの本田透、堀田純司両氏の主に経験則に基づいた視点から現代の『学校崇拝』、そしてそこから見える社会全体のあり方について問題提起したものです。
本の表題そのものが現代の価値観に抗う一つの命題です。果たして生きるのをやめたくなるほど苦しい思いをしてでも学校は行かねばならないものなのか、否ンなことは有り得ません。
それでも何故現代では学校を拒む子供たちは否定的な見解でばかり見られ語られてしまうのか、そもそも学校を拒むとは一体どのような状態なのか、原因と結果から詳しい見地で語られています。
また、学校という体系が社会における人のあり方をどのように作っているか、その体系が現代社会ではもはや崩壊しつつあり、現状にそぐわなくなっている、という事までに至る詳しい流れの考察も入っています。
社会全体ということで、目下不登校中で文字を読むのが苦にならない学生さんからどうにも学生時代に不完全燃焼だったりして現在フリーターやニートになっている方、はたまた職場の対人関係に悩める社会人のはしりの方にまでオススメできる、ひいては文部科学省の連中に著者の爪の垢でも煎じて飲ませたくなるような一冊です。
ちなみに今ちょっとウィキペディアで文部科学省の項を調べてみましたが、現行の教育法では豊かな創造力を持った人間を多数生み出すことは到底無理そうなので思わずm9(^Д^)プギャーとなりました。
何ゆえ到底無理そうなのかはこの本を読むべしです。
また後書きに代えての項ではあの「生協の白石さん」が寄稿されています。
この本の内容に沿いながらご当人の見解が述べられていました。
さてここからは俺自身の話で。
小中学校の頃は特別成績や授業態度が悪いということはなく、むしろ小学校低学年の頃はよく分からないレベルまで到達していたということでその辺りのやっかみはあったかも知れませんが忘れました。
とりあえず成績がらみでの問題は無かったと言っていいほどの“いい子”でしたが、発展して後に別の問題を引き起こしたりしています。学校システムの問題でもありそうなので、また後で述べます。
本当にまずかったのは対人スキルの低迷でして、当時から今まで続いている厄介なシロモノです。
小2の頃に一時エロオヤジ化したのは本当に一過性のものだったので良かったのですが(絶チルの明石薫かよ)、他にも特に中学で衝突を引き起こしたコト、からかい気味に絡んでくるタイプの性格の人とは決定的に断裂しか生まないような性質がありました。元々そういう連中からすればいじりやすそうな変わった奴だったのはありましたが、そういう俺は妙にプライドがあって馬鹿にされてるとしか思えず、度々そんな調子で接してくる彼等に対し本気で怒っていました。その様子が面白くて尚更からかってくるのでしょうし、友人や教師からもその辺りを適当に受け流せと言われましたがくそ真面目な自分は「適当」が出来ず、逆に常に「適当」な感じでしか接してこない彼等とは決して相容れることはなく、頭に血が上っては手を先に出してしょっちゅう返り討ちに遭っていました。
何しろこちらは頻繁にプライドを傷つけられているのですから、怒って当然とも言えます。かなり満面で怒っていたので相手にもそれは伝わっているはずだと思っていましたが、どうやら相手にとってはその様子は単に自分がニヤニヤするための娯楽でしかなく、俺の心情なんぞはカケラほども考慮に値しなかった模様です。そういう下卑た思考形態を知らない、理解できるはずも無かった俺とではそりゃ合うわけがありません。
そんでもって想像力の無い教師や画一的な価値観を刷り込まれた友人は「先に手を出した方が悪い」の一点張りなので、俺はますます憤っていきました。特に教師に対しては自分がどれだけ傷ついているかということを激情と(涙と鼻水も)共に吐き出したのに、ろくすっぽ考慮してくれなかったという………いじめられている事実を誰にも相談したくないいじめられっ子の心理にも似ているようなコレを言い出したというのに教師は相手側の肩を持つのですから、もうプライドはズタズタです。それでも“いい子”は変わらず…というより大人を信頼しきった子供でしたので、何回裏切られた気持ちになっても仕切ってもらいたがっていましたね。
そんな俺でも何故か友人は小、中、高と常に誰かがいました。一緒にいる間はそんな困った状態も忘れて楽しいひと時を過ごしてましたので、不登校にまで陥ることは無かったのでしょう。先ほどのような不満もその一点だけでしたので、そのためだけに少ない友人を失うのもイヤだったのでこの辺は我慢してはいましたが。
高校にしてようやく、俺と似たような経験を持っている人が多数友人に出来てさしたる意味もなく高かったプライドは見事に溶けて消えて行きました。困ったのは同時にリスクへの耐性まで消えてしまったことでしょうか(これは学校だけの問題ではなさそうですが)。その後特に目立った活動を、「失敗しなければ怒られない」という理由の元何もしない方がいいという結論に達してしまったため、今現在「何もしないでいるのは悪い事」という社会に未だに馴染めないでいます。ちなみにその結論のせいかセンター試験の日取りを全く気にせず、当日になって初めて気づいたという過去もあります(冗談抜きで冗談みたいな阿呆な実話)。
とまあ、こんな感じの人間もいるということで俺の例を長々と挙げてみました。
問題ある性格に矯正が為されたのは(飽くまで結果的には)良かったのですが、最後に社会に不整合な価値観が根付いてしまっては完全に社会の縮図である学校たる意味がありません。
そうでなくとも俺以上に学校に馴染めない人など山ほどいるのです。もはや3〜4割、下手すればそれ以上の子供に対して学校は機能しなくなっているはずでしょう。
古臭く、腐りかけた現状のシステムのままでは学校は形骸化はおろか、悪循環を生み出すことにすらなっています。
社会の変革と共に学校も変えていかねばなりません。めまぐるしく変わる社会について行けないという言い訳をしていては、才能の芽である児童を潰すような結果にしか繋がりません。
弱者は救済する社会である以上、学校もそうあらねばなりません。
一考の余地ありとして、この本を手にとってみては如何でしょうか。
年末のテレビ番組がつまらないならゆっくり読書。それでは皆様よいお年を。
ISBN:4334034276 新書 堀田 純司 光文社 2007/11/16 ¥735
さて、この本はメカビのスーパーバイザーとしてお馴染みの本田透、堀田純司両氏の主に経験則に基づいた視点から現代の『学校崇拝』、そしてそこから見える社会全体のあり方について問題提起したものです。
本の表題そのものが現代の価値観に抗う一つの命題です。果たして生きるのをやめたくなるほど苦しい思いをしてでも学校は行かねばならないものなのか、否ンなことは有り得ません。
それでも何故現代では学校を拒む子供たちは否定的な見解でばかり見られ語られてしまうのか、そもそも学校を拒むとは一体どのような状態なのか、原因と結果から詳しい見地で語られています。
また、学校という体系が社会における人のあり方をどのように作っているか、その体系が現代社会ではもはや崩壊しつつあり、現状にそぐわなくなっている、という事までに至る詳しい流れの考察も入っています。
社会全体ということで、目下不登校中で文字を読むのが苦にならない学生さんからどうにも学生時代に不完全燃焼だったりして現在フリーターやニートになっている方、はたまた職場の対人関係に悩める社会人のはしりの方にまでオススメできる、ひいては文部科学省の連中に著者の爪の垢でも煎じて飲ませたくなるような一冊です。
ちなみに今ちょっとウィキペディアで文部科学省の項を調べてみましたが、現行の教育法では豊かな創造力を持った人間を多数生み出すことは到底無理そうなので思わずm9(^Д^)プギャーとなりました。
何ゆえ到底無理そうなのかはこの本を読むべしです。
また後書きに代えての項ではあの「生協の白石さん」が寄稿されています。
この本の内容に沿いながらご当人の見解が述べられていました。
さてここからは俺自身の話で。
小中学校の頃は特別成績や授業態度が悪いということはなく、むしろ小学校低学年の頃はよく分からないレベルまで到達していたということでその辺りのやっかみはあったかも知れませんが忘れました。
とりあえず成績がらみでの問題は無かったと言っていいほどの“いい子”でしたが、発展して後に別の問題を引き起こしたりしています。学校システムの問題でもありそうなので、また後で述べます。
本当にまずかったのは対人スキルの低迷でして、当時から今まで続いている厄介なシロモノです。
小2の頃に一時エロオヤジ化したのは本当に一過性のものだったので良かったのですが(絶チルの明石薫かよ)、他にも特に中学で衝突を引き起こしたコト、からかい気味に絡んでくるタイプの性格の人とは決定的に断裂しか生まないような性質がありました。元々そういう連中からすればいじりやすそうな変わった奴だったのはありましたが、そういう俺は妙にプライドがあって馬鹿にされてるとしか思えず、度々そんな調子で接してくる彼等に対し本気で怒っていました。その様子が面白くて尚更からかってくるのでしょうし、友人や教師からもその辺りを適当に受け流せと言われましたがくそ真面目な自分は「適当」が出来ず、逆に常に「適当」な感じでしか接してこない彼等とは決して相容れることはなく、頭に血が上っては手を先に出してしょっちゅう返り討ちに遭っていました。
何しろこちらは頻繁にプライドを傷つけられているのですから、怒って当然とも言えます。かなり満面で怒っていたので相手にもそれは伝わっているはずだと思っていましたが、どうやら相手にとってはその様子は単に自分がニヤニヤするための娯楽でしかなく、俺の心情なんぞはカケラほども考慮に値しなかった模様です。そういう下卑た思考形態を知らない、理解できるはずも無かった俺とではそりゃ合うわけがありません。
そんでもって想像力の無い教師や画一的な価値観を刷り込まれた友人は「先に手を出した方が悪い」の一点張りなので、俺はますます憤っていきました。特に教師に対しては自分がどれだけ傷ついているかということを激情と(涙と鼻水も)共に吐き出したのに、ろくすっぽ考慮してくれなかったという………いじめられている事実を誰にも相談したくないいじめられっ子の心理にも似ているようなコレを言い出したというのに教師は相手側の肩を持つのですから、もうプライドはズタズタです。それでも“いい子”は変わらず…というより大人を信頼しきった子供でしたので、何回裏切られた気持ちになっても仕切ってもらいたがっていましたね。
そんな俺でも何故か友人は小、中、高と常に誰かがいました。一緒にいる間はそんな困った状態も忘れて楽しいひと時を過ごしてましたので、不登校にまで陥ることは無かったのでしょう。先ほどのような不満もその一点だけでしたので、そのためだけに少ない友人を失うのもイヤだったのでこの辺は我慢してはいましたが。
高校にしてようやく、俺と似たような経験を持っている人が多数友人に出来てさしたる意味もなく高かったプライドは見事に溶けて消えて行きました。困ったのは同時にリスクへの耐性まで消えてしまったことでしょうか(これは学校だけの問題ではなさそうですが)。その後特に目立った活動を、「失敗しなければ怒られない」という理由の元何もしない方がいいという結論に達してしまったため、今現在「何もしないでいるのは悪い事」という社会に未だに馴染めないでいます。ちなみにその結論のせいかセンター試験の日取りを全く気にせず、当日になって初めて気づいたという過去もあります(冗談抜きで冗談みたいな阿呆な実話)。
とまあ、こんな感じの人間もいるということで俺の例を長々と挙げてみました。
問題ある性格に矯正が為されたのは(飽くまで結果的には)良かったのですが、最後に社会に不整合な価値観が根付いてしまっては完全に社会の縮図である学校たる意味がありません。
そうでなくとも俺以上に学校に馴染めない人など山ほどいるのです。もはや3〜4割、下手すればそれ以上の子供に対して学校は機能しなくなっているはずでしょう。
古臭く、腐りかけた現状のシステムのままでは学校は形骸化はおろか、悪循環を生み出すことにすらなっています。
社会の変革と共に学校も変えていかねばなりません。めまぐるしく変わる社会について行けないという言い訳をしていては、才能の芽である児童を潰すような結果にしか繋がりません。
弱者は救済する社会である以上、学校もそうあらねばなりません。
一考の余地ありとして、この本を手にとってみては如何でしょうか。
年末のテレビ番組がつまらないならゆっくり読書。それでは皆様よいお年を。
ISBN:4334034276 新書 堀田 純司 光文社 2007/11/16 ¥735
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