哲学。
現代でも時折見かける言葉ではありますが、元来の意味を持つものは倫理の時間に学べる一セクションに過ぎず、本屋に出回っているような本に書かれているものは現代型資本主義・恋愛資本主義に毒された、どうしようもないエセ物である――――
冒頭の序章で著者・本田氏はこのように現代に出回る“哲学”をバッサリ切り捨てており、本編にて今までの時代において頭角を現してきた哲学者たちがいかなる人生観においてその考え方を培ってきたものかを、哲学という観点から歴史の流れに沿って幅広くカバーしています。
いやはや、感服。元々ろくに哲学史を知らない俺からすればの視点ですが、

これはもはや、現代において真に必要な哲学を著したものだと思います。
哲学史を学ぶにおいて、教科書ないしは副読本にすることを強く推奨したいくらい。


ただし『電波男』よりは相当控えめとは言え、少し冗談めかして書かれた部分は健在です。
嘘を嘘と見抜けない人に本田氏の本をちゃんと読むのは難しいので注意をば。

あ、モテるために哲学の知識を補充したいなら余所のエセ哲学書を読んでくださいね。
この本は喪男の喪男による喪のための喪のススメ、『喪→哲学』を体系的に証明した本ですから。

喪と言いますと『イケてない象徴』と思われがちですが、単にそうであったら現代の世の中はありません。案外喪の精神は世界に影響を与えているのです。
というより、人間社会が存在する限り喪は多く存在するのであり、多く存在する以上はその中から強烈な影響を与える者が出てくることはむしろ必然と言えましょう。
そして、実際に与えてきた者たちは誰も彼もが『喪』であったとするのがこの本なのです。

主に哲学と呼べるものはヨーロッパで育っていまして、実際この本の帯や謳い文句などでも最初の一文はプラトンから始まっているのですが、第一章の最初に登場する喪男は仏教の始祖ゴータマ・ブッダです。
しかし彼の思想は主にアジア方面にばかり伝播してヨーロッパにはちっとも伝わらなかったせいか、西洋ではそのはるか手前の位置からの思想から始まったようなのです(仮に伝わったところであまりにも早すぎ、新しすぎで理解が広がることはなかったでしょうが)。
彼の出自がシャカ族の王子であったことは手塚治虫氏の漫画等で比較的有名かと思われますが、その彼が何ゆえに出家するほどの思想を抱いたのか。当時のさほど金持ちとは言えないだろう王朝とは言え、少なくともそれ以上にどど貧乏だった平民よりは圧倒的に裕福な暮らしをしていたはずの彼が、です。
手塚氏の漫画では彼が裕福であるからこそ気づいたかのような描かれ方をされていましたが、本当にそれだけで何もかも捨てて出家するほどの境地に至れるものなのでしょうか?
この本では、そんな彼の精神が『喪』であったからである、と論破しています。
「そんなワケねーだろ、『喪』ってことはモテねえってことだろ、ブッダは王子時代にはハーレムもあって奥さんも子供もいたじゃねーか」なんて声も聞こえてきそうですが、そんな人はもう一度この本の帯を見ていただきたい。
『モテるな!』
『喪男【モダン】 喪男とは……モテない男、ではなく、モテることを拒否する男のこと』
いかがでしょうか。つまり、ブッダはそういう思考だったのです。
そして、その上で目の前の現実からはるかかけ離れた思想を展開した彼は、間違いなく哲学者であったのです。

ここでもう一度『哲学』の定義を見直してみましょう。
西洋哲学を紐解くと、かつての文明では到底答えの出ない問いを問う者もまた哲学者と呼ばれていました。例えば、『月はどうして丸いのか』等といったところでしょうか。
そうした物理的なことは科学の発達により哲学の枠からはじき出されていきました。もはや哲学ではなく、科学の領域ですからね。
そうしてどんどん削がれていき、残ったのは人間の精神に関すること。これもまた現代では脳科学とか心理学とかに分類されてしまっておりまして、実際フロイトはそういった方面の人間だったのですが、あまりに人間の脳の未知の部分に切り込んだせいか哲学者扱いされているフシもあります。

要するに、現代においても未だ答えの実現しづらい問いを続け、探ることが『哲学』なのです。
答えの実現しづらい問いとは、自分にとってどうしようもないこの現状を見据えた結果生まれるものです。
何をどうやっても自分では解決できない、だからまず原因に探りを入れるが、その原因と思ったものもまたその上位の何かによって問題をもたらしている、だったらその上位は〜 と延々問い続け、その結果何かしら文面での答えを出す……
著者がウェブサイトでも書いていた『「我キモい、故に我モテない」これが哲学だーっ!』というのも、単純な奴なら「顔も性格もキモいんだからモテなくて当然じゃねーか」と言い出しそうですが(失礼)、そんな浅はかな話ではなく何ゆえにして自分(の顔と性格)は『キモい』と言われるヒエラルキーに置かれているのか、という時点から問いただしていった結果出た言葉であり、そしてそれをどうにかできないかと考察を続けた著者は間違いなく現代の哲学者なのです(当人はライトノベル作家と自称してはばかりませんが…)。
そして、ブッダもまた世に蔓延する悩みを考え、一つの解を出した哲学者なのでした。

このように馬例鶴(←誤変換)生まれいづる悩みは哲学に結びつくのです。
それも、根源的にどうしようもないことほどそういった悩みになるために、そんな立場におかれた人間ほど著名な哲学者になったのです。すなわち、『偉大な思想家はみんな喪男だった!』のです。
このような言葉は『モテ』が異性にチヤホヤされることと思っていてはいつまでたっても出てきませんね。『モテ』の意味もまた細分化させたことから出てきた言葉なわけです。

『モテ』とは即ち大多数の人に信奉されるモノのことです。
ですから資本主義社会の現代においては金持ちが『もてはやさ』れ、恋愛資本主義の現代においてはイケメンだのちょいワル(古)だのエロカワイイだのが『モテ』るのです。…まあ実際は『喪』はもうちょっと融通の利く言葉として使われているような気がしないでもないです。

また、仏教においてブッダが神聖視されて結局仏教の中でも体系、ヒエラルキーが形成されてしまいその中でも『モテ』と『喪』に分かれてしまう、という危険についても言及されています。これは直接書かれているわけではありませんが著者と我々喪ヲタの関係にもあてはまることで、一種警告のような感じだと思います。
真理を語る人を崇拝してはいけない、語る人もまた人、真理を己で実践してこそ、なのだということでしょう。

各セクションを語るのはあまりにも文章が長くなってしまうのでやめにしましょう。っていうか、みなさん読みましょう。


あとがきにおいて、この本は以前著者が手がけた『萌える男』において説明した一元論、二元論が萌えの話であるはずの本から何故出てくるのかよく分からなくて理解不能、という声があったそうで、そんなバカの壁に阻まれた人のためにもその解説を兼ねてエイヤッと書いた代物、とあります。
実際高校の時の倫理の時間なんぞ受験勉強一色のタイミングで出るくせして受験科目に無い授業、まともに学んでいる人は少ないでしょう。読者の声があったとは言え、これはとても時代に必要な本なのだと思います。
哲学史に知を深めたい人も、そうでない人も、喪であるなら、必読の一書です。


…しかし肝心の俺は恋愛資本主義社会ではなく現代の資本主義社会(というより自由競争社会、学歴社会)に反感を持っていて、某ニートの「働いたら負けだと思っている」という言葉がマジだったら途方も無くすげえと思っている人間なのですが…黒沢さんも死んじゃったし、どう生きればいいのやら…
何をしても資本主義社会の思惑通りにされてるっぽくてやんなるぅ。


ISBN:4062137763 単行本 本田 透 講談社 ¥1,890

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